第5話
1991.10.07
1991年10月7日 ラリー2日(3)

三菱のワークス・パジェロがデューンの頂上で止まっている。
友達のビリーのマシンだ。
押すのを手伝ってやるつもりで、側に止まろうとすると、向こうも両手を大きく振って制止させてきた。

何事かと思えば、そのデューンの下には前転し、天井の潰れた車がいると言う。
下を覗くと、まだ事故を起こしてすぐらしく、ナビゲーターが這い出してきて、ドライバーを引き出し始めた。

このデューンは、下りがスッポリと急角度に切れていて、勢い余り、飛び過ぎてしまった様だ。
私達は、急いで10m程の急斜面を下り、2人に駆け寄った。

ナビゲーターがドライバーの脈を診るが、脈が無いと言う。息もしていない。
ナビゲーターが心臓マッサージを始める。

私は銀のレスキューシートで日陰を作ってやり、ビリーはその車のバリューズ(非常用発信機)のスイッチを入れた。
救護の車か、ヘリコプターが来てくれるはずだ。

一秒一秒が、非常に長い時間が経過してゆく。
ナビゲーターにより、延々と人口呼吸と心臓マッサージが続けられた。
それにも拘わらず青い目は、空の一点をジッと見つめたままだ。

心の中で祈った。
何度も何度も祈った。
助かってくれ!

突然ナビは心臓を押すのを止め、ドライバーから離れて、泣き崩れてしまった。

あきらめちゃいけない。まだ助かるかも知れないのに・・・。

私の手は、勝手にドライバーの頬を打ち、「起きろ!起きるんだ!!目を覚ませ!!」と叫んだ。

ビリーに「もうだめだ、よせ!」と止められる。

すっかり青ざめた、ドライバーの瞼をビリーが閉じてやる。

私は両手を胸に組んでやり、シートを丁寧に掛け、手を合わせ心から冥福を祈った。

レスキューヘリが近づいて来た時点で、私もビリーもラリーに復帰する。
この間、何台かの車や二輪が、この惨状を見つつも、傍らを通り過ぎてゆく。
死亡事故が起きていても、当たり前かの様にラリーは続行されて行く。

本物の戦争じゃあるまいし!
こんなイベントが他に有るだろうか?こんなレースなどあって、いいわけがない。

私は大きなショックを感じた。

このラリーというヤツは一体何なのだ?
命を賭けてまで、走らなければならないものなのか?
又、自分自身にした所で、妻子を持ちながら、命を弄んでいていいのだろうか?
強烈な葛藤が、頭のなかを駆け巡る。

その答えも出せないまま、悶々とデューンを越え続けて行く。
魂が抜け出てしまっていると言うのに、私の身体はアクセルを開け続け、マシンを前へ前へと進めていく。

これ程までに悲しく、こんなにまで辛いのに、涙の一粒もこぼれない。
心まで乾ききってしまった訳でもないのに、目は潤んでもこない。

この2日後の朝の事だった。
スタート前に、水を充分に飲んでから砂漠を走り始め。
この事を思い出すと、何故かしら、目から蛇口を捻った様に水が出て、止まらなくなってしまった。

心の宿らない肉体だけの私に、高さ20mほどもある砂丘群が立ち塞がる。
もうだいぶ大きなデューンにも、慣れてきてはいたが、どうにも登れる高さじゃない・・・・・・・。
助走も良く、全力で駆け登り、頂まで7~8m余りの所までは、辿り着く。
身体はもうすでにボロボロで、ハンドルに身体をぶっつける先ほどの方法は、もう二度と使えそうもない。

いよいよ最後の手段となる「軽量化」。
荷物を全ておろし、かついで先に運ぶ事にする。
背おっている荷物10㎏にプラス、マシンに積んでいた20㎏の荷物も担ぐ。

スタンドを立てずとも、立ったままのマシンを置いて、巨大な砂丘を歩き始めた。
どこまで歩くのか考えていない。
今はとにかく担いで歩くしかない。

サラサラの砂の斜面は、一歩一歩足を吸い込み、踏んばれない上に、右足を置く度に痛みが走る。
頭のすぐ上にある大きな太陽は、衣服をチリチリと焦がしている。

この時の心境は、「疲れ」「焦り」「恐怖」とかいう、おどろおどろしいものではなく、 信じられない事に、子供の時の遠足の様に、心は歓喜に包まれていた。

フランス映画にありがちな、観賞者が吐き気をもよおす程の、いやがらせがほくそえむ。
そして、たちの悪い原作者の思惑を、自分自身が楽しめている事が、愉快で痛快そのものだ。
痛み、熱さ、孤独の恐怖に、さいなまれてもいいはずなのに、まるで反対に楽しくてしょうがない。

砂漠というシュチィエーションの中で、死、直前状態の体現。
このラリーと言うやつの、テーマはきっとこれだ。

まるっきりシナリオ通りに、演じる事が出来ている事と、先進なのか?
頽廃なのか私には判断出来ないが、華開くフランス文化に、スキップしたいほど嬉しい。

私は笑いながら歩いた・・・・・・。  
50°はある大砂丘の急斜面を、30㎏の荷物を担ぎ、一歩一歩、足を上へ上へと置いて行く。
足は深々と埋まり、それを引き抜き、さらに30cm上へ置くが、置くはしから埋まり、一歩では10cmも上昇出来ない。

右足の痛みは、究極の快感の隠し味で、それがこの料理の、より一層のうま味を増している事に、満足していた。

楽しくて可笑しくて、こうやって笑っていても、気がふれてはいないはずだ。
少なくとも自分自身からは、精神に異常をきたしていると、考えてもいない。

ただ茹で上がった熱い脳みその中に、太陽が入って来た様な感覚に、囚われてしまった事が問題かもしれない。

5mおきに荷物を下ろしてはしばらく休み、わずか20m、、、たかが20mしかない丘の、頂上へと向かう。

頂上を征服する度にばったり倒れ、顔だけはタオルを被り、チリチリに焼けた、砂の上に転がって寝た。
このまま寝入ってしまえたら即身仏、ミイラになれるのに。
又起き上がっては、ゾンビのように足をひこずり歩く。

4つの熱砂の丘を越えたところで、やっと波は静まってくれていて、荷物を置き、マシンの元へと引き返す。

後ろの砂丘には、いつの間にか2輪や4輪が、あっちこっちで埋り、同じようにスタックしている。
その近くを歩き、目が合ってしまうと、ついつい押すのを、何台も何台も手伝ってしまう。

日本を出る前、創業10周年を記念し、10は善行をして帰るぞ!
と青臭く内心で誓っていたが、ここで一気に、半ば強制的に、7つ8つポイントを稼ぐ事となる。
ラリー中30以上ポイントを得たが、それと同じぐらいか、それ以上に色々なトラブルで、多くの親切な人達に助けられてもいる。

すぐそばを3台の二輪が、豪快に駆け抜けて行く。
次の丘で、その中の1台が完全に埋り、スタックしてしまった。
本来なら、トップグループを走っているはずの人が、ミスコースでもしていたんだろう。
どうにも脱出できない様で、その近くでスタックしている車の連中に、命令口調で「カモン、カモン」と大声を上げている。
言い方がそんなのだから、誰からも無視されてしまった。

そして彼は憤慨し焦るあまりに、アクセルを煽りすぎているので、余計どうにもならなくなっている。

ようやく自分のモトに、帰りついたばかりだというのに、見るに見かねてしまい、仕方なく助けてやる事にした。

10分ほどかかり、一山再び折り返し、やっとたどり着いた。
マシンのテールを押してやると、パワーを掛けすぎているものだから、思いっきり頭から、砂を浴びせられてしまう。
もっとゆっくり、クラッチをつなげば良いのに!。

渾身の力を込めて押さないと、この大きなこのマシンは、ぴくりとも動いてくれない。
何台もの車を押したすぐ後だから、私の身体は筋肉痛で、バラバラになってしまいそうだ。
押しては止まり、押しては止まり、力を入れて押さなければ、すぐに止まってしまう。
顔中、体中に砂を浴び、ようやく丘を越す事ができた。
やったネ! 日本語で言ったから、独り言になってしまた。

今度は私のマシンを、押すのを手伝ってくれるのかな?と、かすかに 期待していた。
ところが彼は、礼として手の一つあげるでもなく、振り向く事なく、彼方へと消えて行ってしまった。
善意の押し売りの失敗例。

まあワークスライダーは、ラリーが仕事でタイムイズマネーさ。
所詮私は、趣味でのラリーじゃないか。 見返りを期待するなら、偽善にしかならない。
とは思いながらも、「プロライダーにはろくなヤツはいない!そもそもまともなやつは、こんな野蛮な乗り物に乗っている筈が無い!」
独り言をブツブツ言いながら、自分のマシンへと帰る。

マシンへ帰る途中、疲れて果ててしまい、またいつもの様に、 砂山の頂きに転がって寝ていると、50才位のフランス人ライダーが、私の傍らに止まった。
「大丈夫か?」
「どうもありがとう、今休憩中なんですョ。」
彼は呆れ顔でモトはどこにあるんだ?と聞いてきた。
あそこです。
なぜ?
埋まってどうしようもないから、荷物を先に置いてきたんです。
言葉も無く、可哀相に、と彼の顔に書いてある。

すぐ後から2人の連れも、側へやってきた。
彼らは、このひどいデューンを楽々上がって来て、ここの大砂丘を本当にエンジョイしている、と言うのが分る走りだ。

エンジンガードに取り付けてある、エマージェンシー用の水タンクに、ストローを挿して、水を飲ませてくれた。 彼はヘルメットを脱ぐと、ライオンの立て髪の様に毛が逆立ち、金髪が逆光で眩しく、神々しく、神にも思えた。
「ありがとう!メルスィ!」

マシンの処へようよう帰り着く。
再びマシンに乗り、さきほどどうにもならなかった、デューンに挑戦する。
軽量化のお陰で、想像以上にたやすく、次々とデューンを征服して行ける。
あっけないほどあっと言う間に、荷物を置いた所へ到着した。
やはり荷物がなければデューンは越せる。少し自信を持ち始めた・・・・。

マシンが軽ければ、大きなデューンでも、下りから思いきり助走さえつければ行ける。
やはりこれだ、これ!

思いっきりアクセル全開で、下り始めるとすぐに、つけれるだけの勢い、スピードをつける。

どんどんデユーンを克服して行ける。

そんなある時、定石どうりにアクセル全開で急坂を下り、物凄い助走をつけ登りに差しかかった時の事だ。
突然、マシンの前輪が砂の壁にすっと消えた。
助走の勢いでマシンは、登りだと言うのに逆立ちし、ジェット機の緊急脱出装置よろしく、私はもの凄い勢いで上にフッ飛ばされる。

軟着陸後、砂山の上から、中腹にあるマシンを見ると、前輪が刺さり、転びもせずに逆立ちしたままで立っていた。

こんなこともあった。
デューンを登り切り、前輪は頂をわずかに越えた。 それはすごく良い状態だと言える。
なぜなら、少しでも頂の手前で失速すれば、たちまちスタックし、再び熱砂地獄と格闘しなければならなくなるからだ。
絶対にそうならない様に、前輪だけは砂の頂きを、必ず越させておく事が必要だ。
下り側はどんなになっているのかな?と覗くように進むと、そこにはあるべき砂のスロープが無い。
急角度でスッパリと切り立っている。
なすすべも無く、前輪から吸い込まれ、マシンに乗ったまま、真逆様に滑り落ちてゆく。
思わずブレーキを駆けたが、まるっきり効かない。
悪い事にここは、Vの字の谷で、真正面は砂の壁だ。
思わず「あーっ!!」と 大声を張り上げてしまう。

マシンごと砂壁に激突し、すっぽり刺さってしまった。
顔も上半身も完全に、砂にめり込んでいる。

なにも見えなくなってしまい、死が一瞬能裏をかすめる・・・。

必死にもがく!手も足もばたばたさせて、死にもの狂いでもがく。
すぐに砂中から抜け出していたのに、生き埋めの恐怖が、尾を引いている。

砂はどこまでも深くサラサラで、かなりのスピードで激突したにも拘わらず痛くも痒くもない。

身体もマシンも、どこも傷んではいない。
一瞬息が出来なかったので、びっくりしただけだった。

砂に囲まれた谷間の底は、不気味なほど静かだ。
風も無いのに上から砂が、音も無く、後から後から流れ落ちてくる。
何時間かこのままだと、マシンは完全に埋まってしまうだろう。
「土に還る」と死を輪廻で言うが、「砂に還る」のも悪くないかも知れない。

ただ、ここではバクテリアなど存在しないだろうから、砂という粒子の形のまま、当分転生する事は無い筈だ。
散々、悪業を重ねている私などは、何千年も熱砂地獄をさまよう事に、なるのだろうか。
私の悪行とは、化石燃料の無駄使いを、こうしてやってる事では有るが・・・。
20世紀の現在は、まだ許される罪の一つだ。
21世紀にはどうなってる事やら。

日本人参加者の中に、バイオテクノロジーのエンジニアがいた。田中の奥さん友子さんだ。
カイロにいた時に、彼女が話してくれてた説明によると、「砂漠の砂には、養分はたっぷりと含まれとぅよ。植木砂に使うと木が良く育つと!」
砂の中には、岩石は勿論、昔の生物の成れの果てが、有機質として含まれているからだろうか?
と言う事はつまり、砂漠は地球上全ての物質の、墓場という事になる。

早く抜け出したい。
友子さんの言葉を思い出し、墓場を連想するに至って、居ても立っても居られなくなった。
顔の砂を払い、ジャリジャリになった口をゆすごうと、ペットボトルを見れば、破れていてカラッポだ。
唾で根気良く砂を吐き出す。
鼻からも砂が出てくる。
ゴーグルをしているにもかかわらず、目にも入っているが、不思議とぜんぜん痛くないし、気にもならない。
襟から袖から、入った砂が、体中からどんどん出てくる。

マシンを掘り出した。
ぼやぼやしていて、私と同じライン取りで、バイクか車が降ってくると、一巻の終わりだ。

安全なところまでマシンを引き出し、コースMAPを広げ、チェックポイントとゴールの方位を確かめた。
まずはチェックポイントを目指そう。

波は静まり、砂漠のド真中に一本だけ、ポツリと生えている「バオバブの木」の近くを走る。
ホッ。 完全なオンコースだ。

しかしこのすぐ近くには、チェックポイントがあるはずなのに、何処にも見当たらない。
なんらかでスタッフが来てないんだ。

まあいい、、、、、。 これもラリーではよく聞く話だ。

それから一時間余り走ると、ようやくゴールへと辿り着いた。

SS343㎞終了
AM4:20

これよりキャンプ地まで、398㎞のリエゾンを走らなければばらないというのに、すでに太陽は西に傾き始めている。
スタッフにガソリンの置いてある場所を聞いても、知らない、ここには無いと言う。
12リットルの予備燃料で、すでにSSを90㎞も走っているから、6リットルほど消費しているはず。
案内には確か、SSのゴールには必ず給油所を設け、二輪車は全て無料です。とあった。

厳めしい顔つきで小銃を構える警官に、憶えたての「サラーム !」と言い、笑顔になったところでガソリンスタンドを尋ねた。
「12㎞先の左にあるぞ!」と英語で教えてくれる。
それぐらいならなんとか持ちそうで、安心してリエゾンを走り始めた。
ところが12㎞行こうが15㎞行こうが、ヌルヌルにコールタールが溶けた真黒な道以外、何もありゃあしない!
20km地点にポツリと、ガソリンスタンドらしき店があり、すでに閉店しているので戸を叩いた。
うちにはガソリンは無い、軽油だけだ。

天空の半分が真赤に染まり、足早に太陽が地平線に沈み、そして消えて行く・・・。
異国の砂漠で夜を迎え、しかもいつガス欠で、ストップしてしまうかも分からない。

主催者によりる、心細さはたとえ様も無く巧妙で、恐怖はシリアスに演出されている。
ライトの光は、黒光りするアスファルトに吸収され、土砂降りの雨の夜の様に、殆ど路面が見えない。
突然大穴があったり、ライトを灯けてない対向車が、突然真正面からやって来る。
何も無いと思い走ってるのに、ほんの直前で、ライトを突然点けたりするものだから、びっくりさせられる。

ここではひょっとすると点けない方が、まだしも前がよく見えるのかもしれない。
試すとなんとなく良い感じだ。
少しの間だけ消したままで走るが、私の既成概念は、がぜん無灯火走行を許してはくれない。
落ち着いて走れないのだ。
やはり見えにくくても、ライトを点けて走る事にする。

砂漠を走る事と同じくらい危険な、一応は舗装路を120㎞も走ると、ようやく村があり、10台程のラリーカーが、給油待ちで行列している。
気前のいいドライバー達ばかりで、順番を先に回してくれた。
燃料を入れてみると、なんと42リットルタンクに、ほぼ42リットル入ってしまう。
一息ついたところで、人間にもコーラを、恐る恐る補給してやる。
エジプトではたとえ缶入りの類でも、注意しながら飲まなくては、生き残って行けない。

ある時、皆でオレンジジュースを飲んでいて、ネクターみたいに甘いナァー、と言っていると。
後藤君が「ウッソォー、これ酸っぱかとー!」と吹き出した。 ビンの口が欠けていて、空気が入り腐っていた様だ。
彼はすでに、半分以上飲んでしまっていたのだ。

エジプト製バドワイザーを一缶飲んだだけで、飲んだ物全員が、吐き気と頭痛を起こして、悪酔いしてしまった事もある。
魚を食べればドブ臭い。 肉を食べれば猪シシに似てて、獣臭い。
おそらくロバだろうと思われる。
なぜなら道ばたの木に、シッポを結んでつるし、皮をひんむき、ハエのたかるロバ肉を売っている光景を、幾度か見た事があるからだ。

サラダになっている野菜は、一見新鮮で本当に美味しそうに見える。が実はこれが一番の下痢の元で、日本人なら的面下痢を起こすという代物だ。
だが野菜には罪は無く、洗う水の方に問題が有るとの事だ。
いずれにしても私以外の日本人全員が、エジプトに着き1~2日で、強烈な下痢になってしまっていた。

コマ地図だけを頼りに、何時間も何時間も、夜の闇の中を走り続ける。道路標式は完璧に解読出来ない。
舗装路とはいえ、アスファルトが剥がれていたり、穴だらけだったり、道から外れて走ったほうが、走り易い事もある。
廃墟にしか見えない不気味な集落が所々にあり、路地を右に左にコースをナビゲーションする。

すざまじい勢いのラリーカーに、時おり抜いていかれるが、同じ方向に向かっている車がいる。という事だけで心底嬉しいものだ。
なるべくテールランプを追いすがるが、やつらは200km以上出してるようで、10分ともたない。
どういうわけかテールランプの明かりは必ず、飛行機かロケットでもあるまいに、水平線より高い所へと消えて行く。
その赤い点は一旦上昇し、星空に混ざるように、上空へ消えて行く。

自分自身の視点もこのテールランプも、宇宙空間を旅する座標空間を移動する。
不思議なことに、二次元上の動きに留まらない。

この赤い点は、暗黒中の3次元空間を、x軸、y軸、z軸上に、3次曲線でゆっくりと流れる。

どんどん小さく遠くなり、そしてついには何十万光年も離れ去る。
その暖色系ナトリウム光は、銀河宇宙を離れ、遥か他の銀河へと紛れ、完全に消え去って行く。

暗闇の中へ、置いてきぼりになる。
このやるせなさは、アリババの手下の、落ちこぼれの心境だろうか。

この3日間で合計、わずか5時間しか眠る事が出来ず、疲れと重なり強烈な睡魔が襲ってきた。
道が単調だと、睡魔は最強無敵を誇り始める。
頬を叩き、足をつねり、走りながらエアロビし応戦する。
再び眠くなるともう1セット、もう1セットと、何百セットも繰り返し攻撃する。

真夜中の2時、テントまであと残り26km。
コースは舗装路から、ふかふかの砂の緩やかなうねりへと入り、ライトで照らす限られた部分しか見えない。
先の地形は想像がつかない。

これからどんな地形、砂質を走るのか、数秒前にならないと分らない。
轍が沢山あり、ONコースのはずだが確証は何処にも無い。
必死で確かな確証を求め、暗黒の世界を迷い、さまよい続ける。
テンカフを踏むように、キュッキュツキュツと音が出るほど砂がきめ細かく、タイヤが半分埋まりながも走る。

真っ黒い壁の真ん中に、遠明かりが見えた。
最初、テントの明かりかと思っていたが、近づくと20mもの高さでめらめらと、カミヨンが燃える火だった。

私の荷物を積み込んだ、カミヨンだったらラリーを続けられなくなる。
それにしても、なぜ燃えたんだろう?

ここは本物の戦場だ。

それから20分、左手の黒い宇宙空間の上に、小惑星を従えた今度こそは本物の、巨大なアラビックテントの灯が見えた。
本当に嬉しい。

真夜中の2時半。あちこちで、コウコウと明かりを照らし、ワークスチームのメカニック達がテキパキと作業をしている。

カメラマンの鈴木君が、ステラビールで迎えてくれた。

エジプトで飲むこのビール、10本に9本は酸っぱくて危険な味だが、この時飲んだステラは大当たり。
よく冷えてて爽やかで、ほんと旨かった。

山盛りの料理の数々。 広いテントの中をゴージャスな料理が、ぐるりと取り囲んでいる。
肉料理、鳥料理、魚料理、チャーハン、スープ、サラダ、、、、、フルーツジュース、コヒー、紅茶と、たいがいのものが充分にある。
一件美味しそうな料理の山々だが、味の方は語る事が出来ないほどに、見事にまずい!

ここで唯一、心底安心して、本当に美味しくいただけるのは、「ナン」だけだ。
エジプト人の主食で、パンのルーツみたいな食べ物だ。
味はパンに良く似ているが、パンほどは膨らんでいない。 餅の様な粘りも少し有り、ほおばり噛むと、歯ごたえも食感も良い。
小麦粉を練り、専用のカマドで炭火焼きしてある。
ラリー中、エジプシャンのナン焼き専属のおばさんが、夜遅くまで焼いててくれ 、選手もスタッフも、この焼き立てのナンで生き返る。
焼きたてをいただくと、実に香ばしく甘味もあり、まるでアフリカの大地、ナイルの恵みそのものを噛み締め、食している気にさせてくれる。

今朝、スタート前に、ランチパックを貰っていたが、SSのゴール地で食べようと見たら、乾パンは粉々で食べる事が出来なかった。
昼抜きの腹ペコだから、両手で掴んで頬張りつく。

毎晩主催者よりブリッフィングが行われ、翌日のコースや時間の変更、危険個所等の説明を受ける。
ところが一応は聞いては見るが、仏語だからさっぱり解らない・・・。
日本人選手皆で手分けし、それぞれに、フランス語も英語も解る友人達から、情報をかき集める。
農耕民族の性からか、日本人参加者はすぐコロニーになってしまい、他の国の人としゃべらないと耳にするが、この年の日本人選手は、それぞれに友人を作っていて、情報がどんどん集まる。

私の荷物を積むカミヨンは健在だった。そこから50kgはあろう、工具やスペアーパーツの入る、重いガン箱(衣装缶の大型)を降ろし、マシンを整備をする。
極度の疲労、筋肉痛、骨折の痛み腫れ、と食べ過ぎの満腹。 そうそうそれに軽いアルコールとで、この時の整備のつらい事。

それにしても九州の3人と、北海道の大塚君が、夜中の3時になっても、まだ帰ってこない。
カミオンバレー(掃除トラック)にも積まれてなかったから、まだどこかを走っているに違いない。
気掛かりだがどうする事も出来ない。

アラビックテントには、絨毯がひかれてある。
そこに冬用のジャケットを着て、転がって寝る事になった。
日本を発つ時、大きな手荷物二つの中に、どうしても寝袋が押し込めず、イタリアで調達するつもりでいた。
何軒アウトドアショップを叩こうが、布団みたいにどでかいのばかりで、コンパクトな寝袋を在庫してる店が無い。
いざとなったらあの冬用ジャケットがあるさ、と思っていたら、やはりこれで寝るはめとなっていた。

さほど寒くないから大丈夫。 眠れるだろう。

砂だらけで、地面と境目の分らない絨毯の上に目を閉じ、倒れた瞬間に寝入っていた。